清水弥生堂100年物語

二代目 眞

機関士を辞めて菓子商に

出兵前、19歳という最年少で機関士の仕事をしていた眞は、兵役が終わったら再び機関士に戻ろうと考えていました。しかし、闇菓子が飛ぶ様に売れる現実を目の当たりにし、父・幸太郎の商売をもっと盛り上げようと心に決め、辞職願を手に機関区長のもとを訪れます。
何もわからない未知なる世界へ飛び込もうとする眞を機関区長はたいそう心配しますが、眞の変わらぬ決意に「清水の辞職を俺は黙認するから、菓子屋として自信がつくまで頑張ってみよ。自信ができたらお前の辞職願は受理しよう。どうしてもつかなかったら、ここへ戻って来い」と温かい言葉をかけました。思いもよらぬ機関区長の言葉に勇気づけられ、眞は頑張って立派な菓子屋になろうと誓ったのです。

職人から飴玉作りを学ぶ

昭和22年頃、世間では飴玉や変わり玉、ゼリービーンズが人気だったことから、幸太郎は高山の菓子店から腕利きの飴職人・丸山安右衛門を迎えました。眞は安右衛門から飴玉作りを教わりながら、「やはり父とは作り方が違う。職人技はすごい」と実感し、あらためて幸太郎の苦労を思い知るのでした。
やがて遠くは富山から足を運ぶお客さんも増えるようになり、商売は大成長を遂げます。
「眞、おまえは立派だな。丸山さんに付いて難しい飴玉作りをよく覚えたな」。父幸太郎の言葉に励まされ、眞はますます商売に精を出しました。

幸太郎の願望で、砂糖問屋へ

菓子製造販売が波に乗ってきた昭和26年には砂糖の統制配給が廃止となり、砂糖販売が自由化されました。幸太郎は先を読んで大手精糖会社の株を買い、当時のお金でなんと100万もの大金を手にします。
「これで、米相場で失敗した分の仇を取ったわい。お前たちにも苦労かけたな」と喜ぶ幸太郎。その100万円を眞に手渡し、眞に「これで砂糖問屋をやりなさい」と命じました。
砂糖は菓子製造には欠かせないものであり、日々の食生活においても必要不可欠なものであることに幸太郎は目をつけたのです。

幸太郎の願望で、砂糖問屋へ
昔はこうした車で配達していました

糖商という職種は、当時は特に格が高く、「紳商」と呼ばれるものでした。砂糖問屋は、当時は掛仕入が出来ず、都度の現金支払いという厳しい条件だった為、各都市に1軒位しか無い状況でした。
眞は幸太郎の言う通り特約店を回って砂糖を仕入れ、そして大量に販売し、高山で唯一の砂糖問屋となったのです。この事業転換が、今の清水弥生堂の礎となりました。
そして昭和38年には「株式会社清水弥生堂」を設立、眞は代表取締役に就任。父・幸太郎は一線を退き、幸せな余生を過ごしました。

総合食品業として歩み始める

眞は社長に就任後、砂糖だけでなく、お菓子の原料である小麦粉、水飴なども精力的に販売。その他にも、寒天や落雁粉の販売なども手がけました。「とにかく、お菓子の材料となるものは何でも揃えて行こう」と、総合食品業として、現在の清水弥生堂の礎となる道を歩み始めます。
やがて昭和41年には本社を高山市花岡町に移転、顧客のニーズに合わせて包装資材の販売にも力を入れるようになります。

昭和50年には、息子の幸平が取締役に就任。幸平という名は、眞が父・幸太郎への感謝の念を込めてつけたものでした。その名の通り幸平は、幸太郎の熱い血を受け継ぐかのごとく、時代に合わせて取扱商品の幅を広げて行きました。

総合食品業として歩み始める

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